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ジャンジャン市場

ジャンジャン市場。
面白い本を読みました。

林五和夫氏の話です。
昭和30年頃、闇市を整理していて、それでも整理しきれない店を
集めて飲み屋長屋が出来たそうです。
ちょうど今のセンター街のマルイの西半分にあたるところ。
そこがジャンジャン市場と呼ばれるようになったそうです。

ジャンジャン市場の名前はジャンジャン飲め、食え、騒げ、儲けろ
ということからそう呼ばれるようになったとか。

(また一説には臓物などをジャンジャン焼いて食べさせたというところから
というものも)

とにかくどこの店も屋号などはなくそこは労働者のオアシス。

そこにすごい美人がいたそうです!
もう本当に正視できないくらいの美人が。(どんなんだ~)

で、お酒をもってきても一言も発しない。
このきたない店とのコントラストがすごい。
そのうちその美人が評判になり、詩人、絵描き、記者、彫刻家などが
ひきもきらず客としてくるようになり、その店だけ客層が変わって
しまいました。
なんとあの大宅壮一氏もやってきて「はきだめに鶴」と
激賞しました。

しかしこの美人、酔客には冷たくて相手にならなかったそうです。
ある日、見知らぬおっちゃんとおばちゃんだけで彼女がいない。
「今から私らが店をします。」
それから二度とその美人は現れなかったといいます。

これは神戸芸術文化会議30周年記念誌
20th Century KOBE MONOGATARI
「20世紀 神戸物語」の一番最後に載せられているのですが
第21回学術セミナーでコーディネーターは田辺眞人先生。
パネリストは石阪春生氏、小泉美喜子氏、新谷琇紀氏、吉田泰巳氏
林五和夫氏、中西勝氏でした。

こんな話神戸市史には載ってないと田辺先生がおっしゃって
いましたが、本当にこんな話を知ってしまったらセンター街を歩くとき
なんだか昔のそんな風景を想像してしまいそうです。

そして中西勝氏の話が続きます。
その美女は「はきだめのお鶴」と呼ばれていたそうで、
男性には冷たかったのですが、女性には気安く話をしたので
中西氏は奥さんと一緒にそこを訪れました。
すると「はきだめのお鶴」さんは奥さんと握手をされたそうで
帰宅してから思わず奥さんのその手をさわらせてもらったそうです~。

こんな話は歴史に埋もれてしまって後世には残らないので
しょうか。(笑)
Commented by 都賀川の河童 at 2017-05-04 16:20 x
随分前の記事なので今更コメントするのもどうなんだろうと迷いましたが・・・。

その美人、ジャン市小町おてるさんの事だと思います。
昭和26年頃、親娘で飲み屋さんをやってたそうです。
原節子似の清楚な美人で、劇団民芸から入団の誘いもあったとか。
おてるさんのファンは戦中派が中心で、
失われた青春の夢を彼女に見ていたのかも知れません。
ジャン市から姿を消した時期と一致するかは分かりませんが、
後に歯医者さんと結婚されたそうですよ。
Commented by kobeport at 2017-05-04 23:54
都賀川の河童さん、コメントありがとうございます。
伝説のジャンジャン市場の美人の続きのお話を
ありがとうございます。
おてるさんという方でしたか。
ジャンジャン市場の歴史の一コマにそんな美人の
お話が残されているのも素敵ですね。
Commented by 通りがかり at 2018-03-29 10:17 x
ある日大きなお兄ちゃんが紙飛行機を飛ばしているのを見て、私は、初めて見る紙飛行機が欲しくなり「僕も欲しい」と言うと、そのお兄ちゃんは、「作るのにはこういう紙がいる」と教えてくれたので、私は早速家に戻りそれを母親に伝えると、母はすぐに表に飛び出しそのお兄ちゃんを一喝、お兄ちゃんは、走って逃げました。そのお兄ちゃんとは、ルンペン(浮浪者)で紙とはお札のことでした(w)。気の毒な戦災孤児も世間からは、ルンペンと呼ばれていたようですが、これは、今のSPAZIOと言うスロット店と高架との間での話しです。しかしジャンジャン市場はそれほど広い範囲ではないので、もしかして私の母と「おてるさん」は知り合いだったかも知れないですね。
Commented by kobeport at 2018-03-29 21:07
通りがかりさん、ジャンジャン市場周辺でのお話を
ありがとうございます。
なんだかそのシーンを想像してしまいました。
そんな時代だったのですね。
お母様はきっと「おてるさん」をご存知だったでしょうね。
皆が生きるために必死に毎日を過ごす、そんな日々だった
でしょうね。
by kobeport | 2008-09-04 23:10 | 神戸 | Comments(4)