2006年 01月 17日
震災11年
今年は助成の縮小で雪地蔵もありませんでした。
なんとか5時46分の黙祷に間に合いました。
あたたかいコーヒーとおぜんざいがふるまわれ、ローソクの灯りを見つめながらいただきました。
たくさんの人たちと一緒になって祈る夜は、あたたかく感じました。
報道陣も去年の震災10年にくらべ、数も減り、10年の節目もおわり年々このようにして縮小されていくのかと思いました。
でも、毎年ここに来ようと思います。
元気になる街を夢見て。
なくなった方々にご報告に来ようと思います。
命を守れる街になるように。
皆がんばっていますと。
建物はどのようにして壊れるか、大学で研究されている先生方は幸か不幸かこの街にはいやというほど教材であふれていると、おっしゃっていました。
防災、減災の拠点となって進んでいくのがこの街の役割だと思っています。
その後、震災復興に関わって、10年が経ちました。5年前の慰霊祭の前で、なくなった方に恥ずかしくない仕事をつづけていこうと思いました。
当時、愛知に住んで、神戸に通っていましたが、今年からは神戸に住んで、1.17を迎えました。このまちが大好きになったから。
マスコミの灯が消えてからが本当の自立復興がはじまるのだと思います。
マスコミ報道はあっというまに奥尻から神戸へ、神戸からサリン事件へと移っていきました。
それまで独占的に報じられていた震災報道が少なくなっていったとき、他の地域の関心が薄れ忘れられるのではないか、と思ったのも事実でした。
同じように奥尻の方々も感じられたことと思います。
自分たちがその立場に立たないとわからないことでした。
ikakunさんは震災復興のお仕事をされ、復興する神戸を目にされてきたことでしょう。
まだまだこれからが正念場だと思っています。
今年から神戸に住まわれているのですか。
この街が大好きになられたから。。。
もう胸がいっぱいで言葉がありません。
ありがとうございます。
震災時、私は長崎にいましたが、両親は大阪でした。
幸い特に被害はありませんでしたが、東灘に住んでいた親戚は引越しを余儀なくされました。
そして、8年前に1年間私も神戸に住んでました。
それだけに私にとっても阪神大震災は他人事ではありません。
この教訓を後世に残していかないといけませんよね。
神戸に縁のある方でしたか。
あちこちのブログを見ましたが、今はネットで皆さんがいろんな想いを書き綴り、記録として残されているのでこれからの震災を知らない世代もそれらを目にすることも多いかと思います。
心強い思いもしました。