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「泰西王候騎馬図」の数奇な運命

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市立博物館に行くとホールに飾られているこの屏風絵。
この騎馬図が大好きでいつも見とれているのですが、この騎馬図は数奇な運命の
もとに、この博物館にたどり着いています。

だいぶん前の新聞記事に出ていたのですが、久々にその記事が出てきましたので
記録のために書き留めたいと思います。

博物館の騎馬図の説明書きの要約。

泰西王候騎馬図屏風
17世紀初め、日本で布教活動を行っていたカトリック修道会派
・イエズス会関連の工房で日本人絵師によって描かれたと
推測されています。
鶴ヶ城は安土桃山時代、キリシタン大名として知られた蒲生氏郷の居城でありました。
これを描く際にはオランダ製世界地図を参考にしたのですが、
日本人がはじめてロシアに関するモチーフを描いた稀有の作品
として今日まで伝世することになった。

以前の(2006年)の神戸新聞の記事の要約は次のとおりです。

松平容保は新設された京都守護職を幕府から任命された。
重臣の中には反対者もいたが、「徳川宗家と盛衰存亡を共にすべし」
という家訓に従い京都に着任します。
会津藩は「8.18の政変」「池田屋事件」「禁門の変」と長州などの過激な攘夷派を弾圧し
その分、孝明天皇の信認は厚くなったが攘夷派の憎悪は容保に集中します。
しかし、天皇の崩御とともに、立場は逆転、戊辰戦争では「朝敵」の烙印を
おされ薩摩・長州・土佐などからなる新政府軍の猛攻撃を受け会津藩は降伏します。

のち、会津藩は下北半島の斗南に三万石の領地を与えられ、ここで廃藩を迎えるのです。
会津藩が降伏したとき新政府軍幹部だった長州の前原一誠は温情をもち、
会津藩の戦後処理を行ったという。

これを感謝した会津藩では、家宝の「泰西王候騎馬図」を前原に贈ったという。
あるいは後に兵部大輔となった前原が勅使として東京の松平家を訪れた際、
気に入ったのでもらったという説もある。

しかし、前原は政府高官の腐敗に憤慨して下野。
故郷長州の不平士族に擁されて「萩の乱」を起こすも敗れ、明治9年に処刑されます。
前原が決起したとき、東京で会津士族たちも呼応を考えるが事前に
漏れ未遂に終わりました。
かつての敵であった長州も会津も犠牲をはらって、やっと成立した新政府の
腐敗に我慢ができなかったのです。

会津から来た「泰西王候騎馬図」はその後も前原家に置かれていたが、
戦前、南蛮美術収集で知られた兵庫の財産家池長孟が購入。
現在の新神戸駅近くに池長が建てた池長美術館で所蔵、公開された。
同館は昭和26年に神戸市に譲られた際に南蛮美術館と改称。
現在は市立博物館がその機能を継ぐ。

と、いったものでした。
ちょうど大河ドラマの「八重の桜」で東京に暮らす容保が出てきましたが
この容保の屋敷に保存されてあったものでしょうか。

会津の激しい戦いの中、家宝のこの騎馬図は大切にかろうじて持ち出されたのですね。

数奇な運命のこの騎馬図を、博物館に行くたびに眺めています。
by kobeport | 2013-12-09 21:34 | 神戸 | Comments(0)