2005年 11月 16日
兵庫開港-7
1860年桜田門外の変、米国公使館通訳官ヒュースケン惨殺事件。
国内の混乱を理由に幕府はまだその時期は開港の時期に至っていない新潟、兵庫の開港の延期等、条約期限の10年延期を申し出ました。
1861年2月のことです。
新潟港は1860年1月1日開港予定でしたが、1859年10月24日にすでに延期の要請をしていました。
新潟港についてはあらかじめ条約文に但し書きが付記されていました。
「もし新潟港を開きがたきことあらば…」
(どのような事情によってそのような付記がつけられていたのか不勉強でわかりません。)
とにかく条約期限の延期を申し出たところ、英仏公使はそれは自分たちで決められることではないのでとにかくこれを機会に各国を訪問して直接延期依頼されてはいかがと勧めました。
そういういきさつで幕府は36名の遣欧使節団を派遣することになりました。
この中に通詞福沢諭吉がいました。
この時の遣欧使節団の写真が残っていますが、みんなチョンマゲでした。
(あたりまえですね。まだ維新前です。)
しかし、この時の幕府使節団が目のあたりにした海外の様子には度肝を抜かれたことでしょう。
成果は10年延期要請が5年に。
そして延期が認められたかわりに輸入税は平均2割から5分に引き下げさせられたことでした。
帰国は文久2年12月9日。
出発は品川より文久元年12月22日のことだったので約1年の渡欧でした。
まず英国と延期要請の調停を交わしたので「ロンドン覚書」というそうです。