2005年 11月 07日
兵庫開港-2
どういういきさつで兵庫の名が出てきたかが興味あるところです。
まず草案であげられた京都、大坂を幕府全権は拒否しました。
京都は「天子の御居所」である。
大坂は「京都の近傍」との理由で。
ハリスは京都は納得しましたが、大坂は譲りませんでした。
そこで幕府全権は、大坂は京都に近いから開港できないが古来外国と通商していた大阪近傍の地を開くようにしてよいと譲歩。
それは堺。
その地も京都に近いが古来イスパニアに開いた地であると。
堺がだめなら、堺のかわりになるところといえば…というところで初めて「兵庫」の名が出てきました。
これは最初の日米修好通商条約の草案が提出されてから10日後のことです。
http://www.yamato300.jp/tukekae/tukekae3.html
あえて堺を持ち出したあたりに幕府のやる気の無さが出ているような気がします。堺がダメというのはどちらが言い出したのでしょうね。
ハリス側も検討してこりゃだめだと思ったのかもしれません。
堺がだめだと言ったのはハリスの方のようです。
どうしても大坂はだめだと押し切った幕府側に堺を持ち出され、しぶったあげくに堺のかわりになるところといえばどこだと聞いてきたようです。
で、出てきたのが兵庫なんですね。
ここのやり取りは当時の日本人通訳が翻訳して記録に残っているようです。もうこのころの幕府は苦し紛れの必死の様子ですね。