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下関での6カ月の龍馬とおりょうの最後の居宅

講和下関で龍馬は伊藤助太夫の家で6か月をおりょうと
過ごしました。
そして龍馬は下関を出て、ここへは2度と戻りませんでした。
おりょうはこの家で龍馬が亡くなったという知らせを
受け取ります。
その伊藤家があったのはこのあたりだといいます。

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この前は道路を隔てて、関門海峡が目の前です。

しものせき観光HPによりますと次のように書いてあります。
下関での龍馬
伊藤家での日々

・慶応2年(1866)12月に来関し、翌年1月初旬下関転居の手続きをとる。
・慶応3年(1867)2月、伊藤助太夫からその邸宅の一室「自然堂」を借り受け、愛妻お龍との生活を始める。
・伊藤家で髪を結ってもらう際、「唐人の寝言」という唄をうたっていた。
(現在も伊藤家に伝わる。)
・伊藤家で催された歌会に夫婦で参加。
(龍馬の和歌が会中で2位となる。三吉慎蔵も参加と推定。)
・夫婦で巌流島に渡り、花火を上げた。(お龍の述壊。)
・下関の遊郭街稲荷町から朝帰りし、夫婦喧嘩。その際、三味線を爪弾きながら俚謡をうたう。
・三吉周亮・印藤聿・伊藤九三らに夢(北海道開拓など)を語り、協力を求める。
・慶応3年9月、お龍・下関と永訣。(11月非業の死)
龍馬の手紙〔現存もしくはかつて存在していた事が明白なもの〕

伊藤助太夫宛14通(個人宛の書状では一番多い。)、三吉慎蔵宛10通、印藤聿宛6通、品川省吾宛1通、計31通
(他に下関で龍馬の帰りを待つお龍宛の手紙が1通有)
龍馬の書状では全部で130余通。全体の20%以上を下関に宛てた手紙が占める。

この隣には日清講和記念館が建っています。
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この記念館は、日清講和会議と下関講和条約の歴史的意義を後世に伝えるため、
昭和12 年(1937年)6月、講和会議の舞台となった「春帆楼」の隣接地に
開館されました。
講和会議で使用された調度品、両国全権の伊藤博文や李鴻章の遺墨などを
展示しています。
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その時の様子です。
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その時の椅子がそのまま現存ということですが
りっぱなものでびっくりしました。
ここで講和会議が開かれるということで浜離宮から送られてきた
といいます。
by kobeport | 2010-12-27 23:23 | ちょっと国内 | Comments(0)